『共産党を吾等が排撃する五つの理由』

三、共産主義は経済生活を破壊す

共産党を吾等が排撃する五つの理由』の第三章、全文(5099字)と要約(509字以下)


共産主義は経済生活を破壊す

共産党の標榜する共産主義なるものが、実際に実行されて、国民の福利を増進し得るものであるならば、而して真に人類の福祉向上を計り得るならば、共産党の為す所に、幾分恕すべき点がないではない。少くとも政権欲満足の為めに政権獲得の為めに、偽りの看板を掲げて、大衆を欺きこれを踏み台とするという非難だけは免れることが出来る。

けれどもこの共産主義なるものは労農ロシアに於て殆ど全然というべき程度に失敗した実証を提供しているのである。これに就て、マルクス主義者共産主義者の徒は、口を極めて
「それは資本主義諸国が労農ロシアに対して経済的封鎖をして居るから出来ないのだ、共産主義に責任があるのでなく、寧ろ資本主義諸国家に責任があるのだ」と弁護して居るが、これは共産主義者一流の、責任を他に転嫁する戦術を用うるものに他ならない。共産主義一流の詭弁戦術に外ならないのだ。

今日世界に於て、自給自足の出来る可能性の最も多い国は、北米合衆国とロシアとである。人口稀薄で、資源豊富で、土地が肥沃で、農産物生産が極めて豊富であり得る国は、譬え外国から経済封鎖を受けても、食糧や簡単な生活必需品の窮迫するが如きことはあり得ないのである。即ち非常の際に於て自給自足が出来る国柄である。

然るに、一九一七年十一月革命後の労農ロシアの状態はどうか。共産主義になれば、国民生活は必ず窮迫から免れる、豊富になるという宣伝で、革命に突進した露国民は先ず、生活必需品の分配を要求した。

共産主義の原理には生活は個人に責任なく、国家がこれを保障するのだということがある。生活のことは、国家に任して置けという気持になって露国民は、先ず生活資料、消費物資を国家から配給されることを要求した。がその物資がなかった。労働の提供、生産の努力は、二の次となるから、無い物資が更になくなって来た。生活能率の総低下ということが、革命直後の労農ロシアを襲ったのである。

そこで共産主義とは相反する「民族自決」という政策を余儀なくせざるを得なかったのだ。一九一八年一月この政策が発表されるや、急進理論派の連中から反対論が出た。

けれども露国全体に、生活物資の国家配給をして居った日には、直に、国家破産にならざるを得ないから、レーニンはこれ等の反対にも拘らず、この政策を先ず断行したのである。而しこれに次いで「強制労働」なる政策をとった。共産主義政治になって、生産率は益々低下する計りで、国民悉くは生活窮乏のドン底に陥らねばならない有様となった。

この窮状を救うために、労働を強制するという事にしたのだが、露国民労働者にとっては、天国が来なくて牢獄が来たという感じが起こらざるを得なかった。

政府者や共産党なども自ら範を示すというので「土曜労働」ということを始め出した。それでも、一旦共産党の公約を信じた露国民は、働くことよりも先ず生活物資の配給を求むるに急にして、労働方面は、益々疎かとなる計りであった。

殊に惨憺たるものは農民であった。国家配給のために、先ず、必要であったものは、食糧穀物であるが、これは農民の生産する所、貯蔵する所のものであった。国家に資金がないから、農民に代価を払って、それを国家のものとする訳には行かない。そこで無償強制徴発を行ったのである。

農民はその家族所要の分だけを残して、その残余は悉く政府に差出さねばならない。こうなると、農民は働くだけ損だということになり、皆相率いて自分の家族の食うだけの作物しか作らなくなったのである。都会方面では益々食糧の必要に迫られ、農村に向っての食糧供給を政府に迫る、政府では農村に向って、益々強制徴発を行う。穀物を隠匿する者は厳罰に処し、それでも出さなければ武器を以て脅迫して徴発する。到る処の村々は機関銃を以て脅かされるという有様であった。

そこで益々農村では穀物を作らなくなる。作って厳罰に処せられたり、機関銃で脅かされては堪ったものではないからである。其処へ持って来て、ヴォルガ河沿岸七県の旱魃ということが起こった。南部ロシアの黒土地帯は欧州の穀倉と言われた地方だ。この地帯でも穀物が実らない。そこで、一九ニ○年から二一年にかけての労農ロシアの大飢饉ということになったのである。工業製産品もなければ、食糧もない、食うに食なく、着るに衣無き状態、宛然生き地獄の有様が労農ロシアに出現したのである。

飢饉に見舞われたロシア全国の情況はどうであったか。この惨害を受けたのは飢饉地方ヴォルガ七県だけではなかった。

この飢饉地方の各村落に於ける餓民の群は、穀物の外青い物というものを残らず食い尽し、犬猫から鼠虫類まで食って、全く食う物がなくなった時には、付近の村へ流れを成して押し出したのである。付近の村を食い尽くして了った時には、又次の付近の村へ押し出して行って、そこに残っている物を食う。斯くして餓民の群れは、始め数百であったものが、千となり、二千数千となり、万となり数万となって、ロシアの荒野を恐ろしい勢いで押し廻ったのである。或るドイツの新聞記者はこの有様を見て「恰も蝗の大群の如く」と形容したが、これは東欧方面の農村に襲来する蝗の大群の怖ろしい勢いに譬えたのである。

斯かる間にこの餓民の群を襲ったものは更に怖るべき疫病である。飢餓チフス、飢餓肺炎、飢餓感冒、等の為に斃るるもの算なく、斃死体は累々として到る処に横わっていた。而も尚食物全くなく、飢餓の極に達した群衆は、遂に空腹の余り、この斃死体の人肉まで争い貪り食うという、宛然生き地獄の有様を呈した。今や死物狂いになった餓民の群が、期せずして皆一様に目指す所はロシアの国都モスコーである。譬え物資貧弱とは言いながら、モスコーは都である。都にさえゆけば何かある。モスコーは彼等にとって生の希望を与うる「救いの地」でなければならない。

<p我も我もとモスコー指して、餓民の群が押し寄せて来る。驚き怖れ恐れ戦慄したものは、モスコーの市民であり、労農政府であり、共産党幹部である。若しこの幾百万の餓民の群に襲来されんか、ナポレオン襲来当時以上の悲惨なる運命に落ちねばならない。モスコーは全く廃墟と化さなければならない。モスコー市民の生命さえ危い。そこで労農政府は、モスコーを、この飢民の群から防ぐために、その周囲に堡塁を築き、野砲の列を布き機関銃を据えつけ、飢民の群来ると見るや、遠慮会釈なく発砲して砲火銃火を浴びせかけたのである。

救いの都モスコーを望み見て歓喜の極に達した飢民の群は、その希望も束の間、救いの手の代りに死の砲火を受けた。これ程の幻滅、これ程の悲惨は、またとあろうか。死屍は累々としてモスコー郊外に堆く横たわったとは、ドイツやアメリカの新聞記者が書いた計りではなく、労農ロシア自身の新聞にも発表された所だ。

共産主義の革命さえ成就すれば、天国が来ると聴かされたために、このおだてに乗って革命を成就させたロシア国民は、今共産主義実行の結果が、如何なるものであるかを、まざまざと実見した。それは全く天国でなく、地獄そのものだ! 全く革命運動者のため、共産主義者のために、欺かれたのだ!

けれどもそう眼覚めた時には、もう遅かった。労農政府は、極めて強固な警察政治(コミッサール)を組織し赤衛軍を組織し、政府に対して、一寸でも怨声を漏らせば命がない。反革命の罪により牢獄に繋がれなければならないのだ。言論、集会、結社の自由は一切奪われて、如何に圧迫を受け虐政を布かれても、これを非難する意思を発表することが出来ない。反抗運動を起そうにも起すことが出来ないのだ。

けれども労農政府は狡猾い共産主義者だけあって、この飢饉は、全く天災から来たものだと宣伝し、耳を聾する計りに叫び立てた。外国の共産主義者にも指令を発し、盛んに飢饉救済の運動を起させた。

労農政府の宣伝で、この飢饉が如何に天災から来たものだと叫び立てられても、其の原因は決して天災のみでない、不可抗力的なるもののみではない。根本原因は、人為的だ、労農政府の政策が悪いからだ。否、共産主義其のものがさせたのだ。農民を極度にいじめて、自分の家族の食うだけのものしか作らなくなったからだ、農村の穀物貯蓄を根こそぎ奪い、全く欠乏させたからだ。而して、革命により政権を奪取し政権欲を満足し切った共産党幹部等、労農政府員等は、彼等が革命前に盛んに攻撃したブルジョア其の者の如く、飢饉の真只中に、モスコー、クレムリン宮殿内にあった。山海の珍味佳肴を積み、贅沢な酒類飲料を集めて、長夜の宴を張ったとは、露人記者が窃かに撮った飢饉当時の写真が物語っている。少くとも、露国民が飢饉のドン底に投げ込まれている時、共産党員だけは決して飢えることなく、暖衣飽食して政府の御用を努めていたのだ。

労農政府が、如何に巧妙なる宣伝と、如何に厳重を極めた警察政治とを以てするも、更に軍隊の力を以てするも、この飢饉を救済することは出来ない。国民生活の窮乏を癒すことは出来ない。而も国家の力を以て、一切の国民生活問題は、全部的に解決されるというのが、共産主義国家の建前である。その国家が、今は此の飢饉に向って、全く無力となったのだ。労農露国としては、茲に何等かその方向転換を求めなければならないことになった。

斯くて案出されたのが「新経済政府」なるものであった。一九二一年三月、共産党大会に於てレーニンは大声叱呼して、ソビエト・ロシアに於て、今や共産主義政策の遂行し得なくなった事情を述べ、而して新経済政策を採らなければならなくなったことを説いて、驚くべき声明に出たのである。それは
「今より後、我がソビエト・ロシアに於ては、国家が個人及びその家族の生活を保障することを止め、個人自身が個人及びその家族の生活に対する責任を負うことにしなければならぬ。それが共産主義でなかろうがどうであろうが、今眼前生死の窮境に陥っているロシアを救うには是より外に方法はないのだ」ということであった。これは明かに共産主義根本原理の放棄、少くとも共産主義の一大退却でなければならない。

国家が国民の生活を保障せず、国民自身がこれを保障せねばならぬという形態は、明かに、個人主義的資本主義的経済形態でなければならぬ。即ち共産主義の原理を実際に行うことの不可能なることは、ソビエティズムの大先達レーニン自らが承認し、半資本主義的経済組織への退却の余儀なきことを告白したのである。而してソビエト政権が樹立されて以後のロシア十ヶ年の経験は、明かにマルクスのいう如き共産主義への進化過程の仮空なりしことを実証している。即ち資本主義的社会より社会主義(共産主義)社会への、必然的過程なるものは、単に文字の上に存するに過ぎず、ソビエト十年の実験は、寧ろその逆過程を示していると云っても、過言ではないのである。

ソビエト政府部内に於ける純理派、即ち純共産主義派が如何にこの為に苦悶し、実際派、即ち現に最高幹部を形成しつつある一派と、如何に真剣に理論の闘争を重ねた所で、現実に於ける「反共産的」若しくは「非共産的」退化の形成は如何ともする能わず、やがては彼等自身、ソビエト政府部内より失脚没落の悲運に際会せざるを得なかったのである。

レーニン未亡人、カーメネフ、ジノヴィエフ、トロツキーらの原理派が、ロシア共産党を分裂せしむるちょう名の下に、相次で政権の中心から追われた皮肉な現象は、現在のロシア共産党が、如何に非共産主義的であり、彼等の政権の実際が如何に非共産主義的であり、彼等によりて統制せられつつあるロシアの社会が、如何に反共産主義的社会であるか、それを有力に物語るものであらねばならない。

共産主義実行の可能を信ずる人達、というより、共産主義的革命を企図しつつある日本マルキスト達、その人達と雖も、恐らくは彼等自身が高唱しつつある理論の真理なることを本当に確信し、それが原理の実現に向って真実に熱情を燃焼しつつある者は稀であって、上記レーニンの告白やロシア十年の経験に徴して、私かに共産主義実行の不可能と共産社会への進化過程の非必然性を認識しつつあるものであるに相違ない。而も彼等の権力欲、政権掌握欲が、彼等及び彼等の同志を駆って矯激なる計画を実行せんとするに至らしめたものと見られ得るのである。

要約

  • これに就て、マルクス主義者共産主義者の徒は、口を極めて「それは資本主義諸国が労農ロシアに対して経済的封鎖をして居るから出来ないのだ、共産主義に責任があるのでなく、寧ろ資本主義諸国家に責任があるのだ」と弁護して居るが、これは共産主義者一流の、責任を他に転嫁する戦術を用うるものに他ならない。

    けれどもこの共産主義なるものは労農ロシアに於て殆ど全然というべき程度に失敗した実証を提供しているのである。これに就て、マルクス主義者共産主義者の徒は、口を極めて「それは資本主義諸国が労農ロシアに対して経済的封鎖をして居るから出来ないのだ、共産主義に責任があるのでなく、寧ろ資本主義諸国家に責任があるのだ」と弁護して居るが、これは共産主義者一流の、責任を他に転嫁する戦術を用うるものに他ならない。共産主義一流の詭弁戦術に外ならないのだ。

  • 共産主義の原理には生活は個人に責任なく、国家がこれを保障するのだということがある。

    共産主義になれば、国民生活は必ず窮迫から免れる、豊富になるという宣伝で、革命に突進した露国民は先ず、生活必需品の分配を要求した。共産主義の原理には生活は個人に責任なく、国家がこれを保障するのだということがある。生活のことは、国家に任して置けという気持になって露国民は、先ず生活資料、消費物資を国家から配給されることを要求した。

  • 生活のことは、国家に任して置けという気持になって露国民は、先ず生活資料、消費物資を国家から配給されることを要求した。

    共産主義の原理には生活は個人に責任なく、国家がこれを保障するのだということがある。生活のことは、国家に任して置けという気持になって露国民は、先ず生活資料、消費物資を国家から配給されることを要求した。がその物資がなかった。

  • がその物資がなかった。

    生活のことは、国家に任して置けという気持になって露国民は、先ず生活資料、消費物資を国家から配給されることを要求した。がその物資がなかった。労働の提供、生産の努力は、二の次となるから、無い物資が更になくなって来た。

  • 生活能率の総低下ということが、革命直後の労農ロシアを襲ったのである。

    労働の提供、生産の努力は、二の次となるから、無い物資が更になくなって来た。生活能率の総低下ということが、革命直後の労農ロシアを襲ったのである。そこで共産主義とは相反する「民族自決」という政策を余儀なくせざるを得なかったのだ。

  • けれども露国全体に、生活物資の国家配給をして居った日には、直に、国家破産にならざるを得ないから、レーニンはこれ等の反対にも拘らず、この政策を先ず断行したのである。

    一九一八年一月この政策が発表されるや、急進理論派の連中から反対論が出た。けれども露国全体に、生活物資の国家配給をして居った日には、直に、国家破産にならざるを得ないから、レーニンはこれ等の反対にも拘らず、この政策を先ず断行したのである。而しこれに次いで「強制労働」なる政策をとった。

  • 国家配給のために、先ず、必要であったものは、食糧穀物であるが、これは農民の生産する所、貯蔵する所のものであった。

    殊に惨憺たるものは農民であった。国家配給のために、先ず、必要であったものは、食糧穀物であるが、これは農民の生産する所、貯蔵する所のものであった。国家に資金がないから、農民に代価を払って、それを国家のものとする訳には行かない。

  • 国家に資金がないから、農民に代価を払って、それを国家のものとする訳には行かない。

    国家配給のために、先ず、必要であったものは、食糧穀物であるが、これは農民の生産する所、貯蔵する所のものであった。国家に資金がないから、農民に代価を払って、それを国家のものとする訳には行かない。そこで無償強制徴発を行ったのである。

  • そこで益々農村では穀物を作らなくなる。

    到る処の村々は機関銃を以て脅かされるという有様であった。そこで益々農村では穀物を作らなくなる。作って厳罰に処せられたり、機関銃で脅かされては堪ったものではないからである。

  • 否、共産主義其のものがさせたのだ。

    根本原因は、人為的だ、労農政府の政策が悪いからだ。否、共産主義其のものがさせたのだ。農民を極度にいじめて、自分の家族の食うだけのものしか作らなくなったからだ、農村の穀物貯蓄を根こそぎ奪い、全く欠乏させたからだ。

  • 労農政府が、如何に巧妙なる宣伝と、如何に厳重を極めた警察政治とを以てするも、更に軍隊の力を以てするも、この飢饉を救済することは出来ない。

    少くとも、露国民が飢饉のドン底に投げ込まれている時、共産党員だけは決して飢えることなく、暖衣飽食して政府の御用を努めていたのだ。労農政府が、如何に巧妙なる宣伝と、如何に厳重を極めた警察政治とを以てするも、更に軍隊の力を以てするも、この飢饉を救済することは出来ない。国民生活の窮乏を癒すことは出来ない。

  • 国民生活の窮乏を癒すことは出来ない。

    労農政府が、如何に巧妙なる宣伝と、如何に厳重を極めた警察政治とを以てするも、更に軍隊の力を以てするも、この飢饉を救済することは出来ない。国民生活の窮乏を癒すことは出来ない。而も国家の力を以て、一切の国民生活問題は、全部的に解決されるというのが、共産主義国家の建前である。

  • 而も国家の力を以て、一切の国民生活問題は、全部的に解決されるというのが、共産主義国家の建前である。

    国民生活の窮乏を癒すことは出来ない。而も国家の力を以て、一切の国民生活問題は、全部的に解決されるというのが、共産主義国家の建前である。その国家が、今は此の飢饉に向って、全く無力となったのだ。

  • その国家が、今は此の飢饉に向って、全く無力となったのだ。

    而も国家の力を以て、一切の国民生活問題は、全部的に解決されるというのが、共産主義国家の建前である。その国家が、今は此の飢饉に向って、全く無力となったのだ。労農露国としては、茲に何等かその方向転換を求めなければならないことになった。

  • これは明かに共産主義根本原理の放棄、少くとも共産主義の一大退却でなければならない。

    それが共産主義でなかろうがどうであろうが、今眼前生死の窮境に陥っているロシアを救うには是より外に方法はないのだ」ということであった。これは明かに共産主義根本原理の放棄、少くとも共産主義の一大退却でなければならない。国家が国民の生活を保障せず、国民自身がこれを保障せねばならぬという形態は、明かに、個人主義的資本主義的経済形態でなければならぬ。

  • 国家が国民の生活を保障せず、国民自身がこれを保障せねばならぬという形態は、明かに、個人主義的資本主義的経済形態でなければならぬ。

    これは明かに共産主義根本原理の放棄、少くとも共産主義の一大退却でなければならない。国家が国民の生活を保障せず、国民自身がこれを保障せねばならぬという形態は、明かに、個人主義的資本主義的経済形態でなければならぬ。即ち共産主義の原理を実際に行うことの不可能なることは、ソビエティズムの大先達レーニン自らが承認し、半資本主義的経済組織への退却の余儀なきことを告白したのである。


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